なのの頭のなか

哲学したことを書き残します

好きになるとはどういうことなんだろう

異性を好きになることについて最近悩んでいる。

気になる、もっと話したい、会いたい、一緒にいたい、笑いたい、そう思えた時にはもうすでに恋をしているのかもしれない。

 

それでもなかなか一歩踏み出す勇気が出ないのは、それが恋だという確証がないからなのかな。

 

今までの恋愛経験を踏まえて考えてみよう。

ぼくはいつも能動的に告白をするタイプだったから、「この子かわいい好きィ!」ってなったら必ず告白するようにしてきた。大事にしたい、守りたい、愛おしい、肌に触れたい、頭をなでたい、そう思えたら告白するようにしてきた。

 

でも今は、そのときのいわゆる「恋してる」気分が具体的に思い出せない。

感情が行方不明で、靄がかかったようで自分の気持ちが鮮明に見えない。

 

おそらく、自分の今の状況のせいで自信がなくなって、本当に恋をしていいのか悩んでいるのだと思う。

はっきり言ってぼくは彼女にめちゃくちゃ尽くすタイプだ。それこそ命と人生をかけて尽くしまくる。だから、好きな子がいるだけで自身に満ち溢れるし、なんでもできるし、なにもこわくなくなる。その子のためになることならばなんだってする。

 

なるほど、ぼくにとって好きになるというのは、尽くしてあげたいと思うことなのかもしれない。書きながらそう思えてきた。

 

尽くしたいと思う相手がいるだけでいつもより頑張れる自分がいる。それはどう考えてもマイナスにはならないしむしろ大きくプラスになるだろう。

 

もしこの気持ちが恋であり、好きになるという気持ちであり、尽くしたいと思う本当の愛情なら、ぼくは早くまともにならないといけないんだと思う。それがもし失恋になったとしても、それまでにしてきた努力は無駄にはならない。

このドキドキをくれるその子のためにも、今は足元と前だけ向いてちょっとずつ進んでみようと思う。

 

書き残しておくことで、あとから客観視できるからここに書きとどめる。

 

 

たばこと恋愛の関係性

 

たばこと恋愛は似ている。

 

ずらっと並ぶたばこを見て良さそうなのを決める。異性もそう。パッと見た感じで良さそうなのを決める。

そしてその相手について調べまくる。

 

そしてたばこを買う。異性にロックオンする。

たばこを吸おうか迷う。声をかけようか悩む。

 

たばこのパッケージを見て、本当に吸えるか悩む。自分の気持ちをさらけ出して大丈夫か悩む。

 

意志が固まったら、たばこに火をつける。告白をしてみる。

 

そこからは自分次第。たばこの煙にむせて辞めるか、意外とすんなり吸えてお付き合いできるかどうか。そこは自分次第。

 

晴れてお付き合いとなる。

たばこには火がついた。

 

付き合っていると、嫉妬や不満や愚痴が灰となって出てくる。それでもたばこは燃え続ける。

 

でもたばこはやがて根元まで達すると消えてしまう。

恋愛もそうだ。いつか終わるとわかっていながら、恋の炎を燃やし続ける。

 

そしていつかたばこの火は消える。

恋の炎も消え、新しく気になる人が見つかる。

 

そうやって好きな人、好きなたばこの銘柄が変わっていく。

 

恋はたばこと同じ。

 

新しい銘柄を選んでしまうのは人間の本能。仕方がないこと。

 

でも「今この瞬間に燃えている炎」を大事にすれば、また同じたばこを吸える。 

そうして恋愛は発展していくんだと思う。

 

どうか、どうか、恋の炎が消えませんように。

そう願って今日も紫煙を燻らせる。

 

 

愛情と情の違い

交際関係が続いていると、ある日を境に愛情が情に変わることが多々あると思います。

 

「この人のこういうところが好き」、「この人と一緒に人生を歩んでいきたい」、そう思うことがあればそれは愛情でしょう。

 

でも、「今別れたら相手がかわいそうだからとりあえずお付き合いを続ける」、「ひとりになるのがさみしいから交際関係を維持したい」など、別れることによって起こるデメリットを避けたいがために交際を続けるのは、いわゆる情によるものだと思っています。

 

情けで付き合い続けていると、常に思考がデメリットに偏り、だんだん相手の嫌なところ、不満なところ、イライラするところが目につきやすくなります。そして徐々に自分本位の考え方に陥り、すれ違いや喧嘩、言い争いが頻発するようになります。

 

愛があれば、相手の嫌なところもその人の個性として受け入れることがてきるでしょう。ですが情けを抱えた状態だと、相手を受け入れる器の大きさが縮んでしまい、今まで許容できていたことが許せなくなります。

 

愛情が情に変わったとき、それはふたりの縁の切れ目だとぼくは思います。

相手に情けをかけるとめぐりめぐって自分のところへいい出来事がやってくるという意味で「情けは人のためならず」ということわざがあります。

 

恋愛においては、このことわざは通用しないのではないでしょうか。

情けで繋がった関係は言わばぬるま湯に浸かって抜け出せない状態です。これではお互いの貴重な時間を浪費してしまうことになります。それは本当の幸せでしょうか。

 

それぞれ別の人生を歩み、新たなパートナーを見つける機会を奪い合うのは、本当の愛ではない気がします。

 

高齢社会の現在、熟年夫婦をよくテレビで見かけることがあります。彼らはときには口が悪くお互いのことをけなしあっているような情景が放送されがちですが、根底では長年育んできた愛情があるのではないでしょうか。息子や娘が結婚したときのこどもに対する愛情、初孫を抱いたときの愛情など、パートナーと一生を過ごすなかで、愛情をうむイベントが人生にはたくさんあります。

 

足を引っ張りあい、どちらも損をする関係性は悲しみしか生み出しません。

お互いの愛情を確かめあいながら、それが情に変わらないように切磋琢磨することが本当の愛ではないでしょうか。